慶應発サイエンス
心不全のガイドライン推奨薬物未処方の理由
研究の背景
心不全は、心臓の働きが弱くなることで息切れやむくみが起こり、徐々に悪化して命を縮める病気です。日本でも患者さんの数は増え続けています。なかでも、心臓のポンプ機能が低下した「駆出率が低下した心不全(HFrEF)」では、適切な薬物療法によって症状だけでなく生命予後の改善も期待できることが、多くの研究で示されています。そのため、診療ガイドラインでは、β遮断薬(カルベジロール、ビソプロロールなど)、レニン・アンジオテンシン系阻害薬(RAS阻害薬:エンレスト®など)、ミネラルコルチコイド拮抗薬(MRA:アルダクトンA®、セララ®など)、SGLT2阻害薬(フォシーガ®、ジャディアンス®など)といった、心臓を守る薬の使用が強く推奨されています。
しかし実際の診療では、こうした薬が十分に使われていない患者さんも少なくありません。もちろん、体調や持病、副作用のリスクなどから、あえて処方しないことが医学的に妥当な場合もあります。一方で、医療制度上の制約や、医師ごとの判断の違い、診療の忙しさなど、さまざまな要因が重なって、本来は使えるはずの薬が使われていない可能性もあります。
これまでの研究の多くは、カルテ情報を後から遡って分析するものでした。そのため、「なぜその薬が処方されなかったのか」という医師の判断の中身までは、十分に明らかにできませんでした。
ガイドラインどおりに治療を進められない場面があること自体は、決して珍しいことではありません。ただし、その背景に「副作用を必要以上に心配している」「薬に対する考え方が医師によって異なる」といった、改善できる余地のある要因が含まれているなら、見直す価値があります。薬が処方されない理由を丁寧に明らかにすることは、より多くの患者さんに適切な治療を届けるための第一歩になります。
研究の概要
私たちは、東京近郊の11の病院が参加する心不全の専門登録研究「WET-HF2レジストリ(図1)」を活用し、2018年から2024年にかけて急性心不全で入院した患者さんのデータを解析しました。今回注目したのは、β遮断薬、RAS阻害薬、MRAの3種類です。退院時と退院1年後にそれぞれの薬が処方されていたかを調べ、処方されていない場合には、担当医師がカルテに記載した理由を確認しました。記載がない場合には、直接確認も行いました。対象はHFrEF患者さん1,523人で、年齢の中央値は72歳、71%が男性でした。

その結果、3種類すべての薬が処方されていた患者さんは、退院時で51.5%、退院1年後で47.4%と、やや減少していました。薬ごとにみると、β遮断薬の処方割合は大きく変わりませんでしたが、RAS阻害薬とMRAでは時間とともに少しずつ低下していました(図2)。

特に注目されたのは、「処方されていないにもかかわらず、その理由がはっきり記録されていない患者さん」が少なくなかったことです。1,523人全体でみると、退院時と1年後を通じて、そのような患者さんは、β遮断薬で約4%、RAS阻害薬で約10%、MRAで約20%にのぼりました。未処方患者さんの中でみると、その割合はβ遮断薬で約半数、RAS阻害薬で4割強、MRAでは半数以上でした(図3)。性別や心不全の重症度、退院時あるいは1年後などの状況に分けてみても、未処方の理由のなかで「明確な理由なし」が一貫して頻度が多いことが分かりました(図4)。


さらに、退院時に「理由が明確でない未処方」であった患者さんでは、その後1年以内に心不全の悪化で再入院した場合、1年後にはその薬が処方されている割合が高いことも分かりました。つまり、本来はもっと早い段階で始められた可能性がある治療が、心不全の再増悪をきっかけにようやく導入されていたことが示唆されました。
今後の展望
この研究から、医学的に明確な理由が見当たらないまま、必要な薬が使われていない患者さんが少なからず存在すること、そしてその状況が退院後1年たっても十分には改善していないことが明らかになりました。これは、治療の見直しが後回しになってしまう「臨床的惰性(Clinical Inertia)」といえる状態です。
外来診療では、その都度「この患者さんには、まだ調整できる薬がないか」を見直す姿勢が大切です。特に入院中は治療を立て直す絶好の機会であり、退院前にしっかり薬剤を調整することの重要性が、改めて示されたといえます。
もちろん、患者さんの状態によっては、薬を減らしたり中止したりすることが必要な場面もあります。ただし、そうした医学的判断とは別に、「なんとなく見送られている未処方」を減らしていく努力が、より多くの患者さんに適切な治療を届けることにつながります。
医師の忙しさだけでこの問題を解決するのは簡単ではありません。だからこそ、日々の診療の中で適切な治療を支える仕組みづくりが重要です。その有力な方法の一つが、医師だけでなく、薬剤師、看護師、リハビリスタッフなどが連携する「心不全の多職種チーム医療」です。2026年度診療報酬改定では、心不全の再入院予防に向けた多職種介入を評価する「心不全再入院予防継続管理料」が新設されており、こうした取り組みを後押しする制度として期待されます。
参考文献
Physician-reported reasons for not prescribing guideline-directed medical therapy in heart failure with reduced ejection fraction: A prospective registry analysis.
Ichihara YK, Shiraishi Y, Sawano M, Kohno T, Nagatomo Y, Kitamura M, Sakamoto M, Nomoto M, Mizuno A, Takei M, Shoji S, Soejima K, Ieda M, Kohsaka S, Yoshikawa T; from the West Tokyo Heart Failure Registry.
Eur J Heart Fail. 2025 Dec;27(12):2760-2762. doi: 10.1002/ejhf.70067. Epub 2025 Oct 13.
