
遺伝性乳癌卵巣癌症候群(HBOC)センター
〜患者さんとご家族に合ったHBOC診療をお届けするために〜
はじめに
遺伝性乳癌卵巣癌症候群(HBOC:Hereditary Breast and Ovarian Cancer)はBRCA1もしくはBRCA2という遺伝子に生まれつき変化(病的バリアント)があることで乳がん、卵巣がん、膵がん、前立腺がんなどの発症リスクが高くなる遺伝性疾患です。HBOC診療は各がん種が発症した際の治療だけでなく、未発症の段階での定期的な検査(サーベイランス)、病的バリアントが遺伝している可能性のあるご家族へのサポートまでが求められます。そのため、各診療科単独での診療では不十分であり、包括的な診療システムの構築が必要です。
また、2020年4月にはこれまで自費診療だったHBOC診療のうちのいくつかの検査や手術などが保険適用となり、加えて昨今に卵巣がん、乳がん、前立腺がん、膵がんに臨床導入された薬の適応を探るためにBRCA遺伝学的検査が必要となるなど、診断機会の増加に伴いHBOCと診断される患者さんの数は今後増加することが予想されます。さらに、がんゲノム医療で実施される検査によりHBOCが疑われた際の遺伝子レベルでの評価と治療対応も急務の課題です。
このような背景をもとに、慶應義塾大学病院では2021年4月に遺伝性乳癌卵巣癌症候群(HBOC) センターを設置しました。HBOCセンターでは、産婦人科(婦人科)、一般・消化器外科(乳腺班)、一般・消化器外科(肝胆膵班)、泌尿器科、産婦人科(生殖)、腫瘍センター、臨床遺伝学センターのHBOC診療関連各科により、患者さんの診療内容の共有、包括的なサーベイランスの実施、患者さんのご家族も含めたサポート、定期的なカンファレンスの実施を通して、HBOC診療レベルの更なる向上と患者さんへの還元を目指しています。
保険収載されたHBOC診療
これまで自費診療で行われてきたHBOC診療のうち下記の管理、検査、手技が、その有効性や医療費への影響から評価され、2020年4月から保険適応となりました。
- BRCA1/2遺伝学的検査の必要性を説明するための指導管理料
- 血液を検体としたBRCA1/2遺伝学的検査
- 乳がん患者さんのうちHBOCと診断されたものに対するリスク低減卵管卵巣摘出術および対側の乳房切除術
- 卵巣がん患者さんのうちHBOCと診断されたものに対する両側リスク低減乳房切除術
- HBOCと診断された患者さんに対するサーベイランス
- BRCA1/2遺伝学的検査の結果についての遺伝カウンセリング
これまで経済的側面から躊躇されることのあったこれらのHBOC診療も、保険収載により今後の普及が期待されます。一方で安易な検査や手術は慎まなければならず、HBOCに対する深い専門的知識のもとでの診療が求められます。また、HBOCの診断には遺伝学的検査を伴うため、遺伝性乳癌卵巣癌症候群(HBOC)センターでは検査の前から結果の理解に至るまでを臨床遺伝専門医と認定遺伝カウンセラーによる専門的な遺伝カウンセリングでサポートいたします。

遺伝カウンセリング風景
今後の普及が期待されるリスク低減手術
リスク低減卵管卵巣摘出術
HBOC患者さんにおける卵巣がんの80歳までの発症リスクは、BRCA1遺伝子病的バリアント保持者では44%、BRCA2遺伝子病的バリアント保持者では17%であり、一般女性が生涯で卵巣がんを罹患する確率が約1%であることと比較すると高率です。卵巣がん未発症の状態で診断された場合は経腟超音波検査や血清CA125測定を用いたサーベイランスが行われますが、このサーベイランスにより本当に早期発見し治癒に結びつけることは困難と考えられています。そこで、このリスクに対する確実な予防法としてリスク低減卵管卵巣摘出術(RRSO)が推奨されます。
RRSOは子宮の左右にある卵巣・卵管を腹腔鏡下に予防的に切除する手術ですが、これまでにBRCA遺伝子病的バリアント保持者に対するRRSOによる卵巣がん発症リスク低減効果は多数報告されています。複数の研究データを収集・統合し2,840名のBRCA遺伝子病的バリアント保持者を対象に解析したところ、RRSO後の卵巣がん(卵管がん、腹膜がんを含む)発症リスクが79%減少することが明らかとなっています(文献1)。RRSOの実施時期としては35~40歳の出産終了時、または家系内での卵巣がん発症者の最も早い年齢時が推奨されています。
一方で、国内でのRRSO施行年齢のピークは推奨されている時期よりも遅い40歳代後半以降にずれ込んでいるため、今回の保険収載によりRRSOが普及するとともにその本来の役割である予防効果を発揮する適切なタイミングで行われるようになることが期待されます。ただ、すべてのHBOC症例に対するRRSOが保険適応となったわけではなく、保険収載されたのは乳がん既発症の症例であり、乳がん未発症のHBOCに対するRRSOは引き続き自費診療の範疇で行われることに注意が必要です。
さらに、RRSO術後に、術前評価では把握できなかった微細な卵巣がんであるオカルトがんが明らかとなることがあります。オカルトがんを見つけるには良性疾患の際の病理学的検索では不十分であり、卵管采は長軸方向に切開、卵巣および卵管は2~3mm間隔で切片作成し、連続切片で評価するSEE-FIMプロトコールを病理医と連携して行っていくことが重要です。
リスク低減乳房切除術
HBOC患者さんの80歳までの間に乳がんを発症する可能性は高いもので70%とされています。一般的な女性の生涯の乳がん罹患率10%と比較すると非常に高率です。このような高い確率での乳がん発症率に対するがん予防策として、リスク低減手術や薬によってがん自体の発症を予防する「一次予防」と早期発見・早期治療を行う「二次予防」があります。乳がんは適切な検診を行うことで早期に発見可能な場合が多く、早期発見すれば決して予後が悪い病気ではありません。しかし一方で、一度発症すると手術治療だけでなく化学療法やホルモン療法などの補助治療を必須とする場合が多く、長期にわたり再発の負担を抱えながら経過観察をしていくことになります。
リスク低減乳房切除術は確実な一次予防策として2020年4月に、すでに乳がんあるいは卵巣がんを発症している患者さんに対しては保険診療にて対応可能な予防方法になりました。リスク低減乳房切除術では乳腺を全摘しますが、全摘術には「単純乳房切除術」、「乳頭乳輪温存乳腺全摘術」、「皮膚温存乳腺全摘術」の3種類があります。これらの手術に加えて、希望に応じて乳房再建術を受けることができます。これらの方法を用いて乳房全摘術を施行した場合の、乳がんリスク低減率は90%以上の効果があるとされています。特に、一度乳がんを発症した方に対するリスク低減手術は新規乳がんの発生率の低減効果だけでなく生存率も改善することが示されています(文献2)。ただし一方で、リスク低減手術そのものの身体への負担や見た目(ボディイメージ)の変化といったデメリットについても考慮すべきであり、施行にあたっては主治医とよく話し合って決める必要があります。
その他の一次予防策として、薬物治療(ホルモン療法)による予防策もありますがその効果は50%と報告されており、薬物そのものに対する副作用も考慮しなければなりません。薬物療法による予防は現在国内では保険未承認となっています。
おわりに
遺伝性乳癌卵巣癌症候群(HBOC)センターでは、HBOC診療に関わる各診療科の専門医が深い専門的な知識のもとで領域横断的に診療にあたり、HBOC患者さんの個々の状況に合わせた最適な治療をご提供していきます。遺伝学的検査でHBOCと診断された方、HBOCと診断されたご家族がいる方、病歴や家族歴、がん遺伝子パネル検査などからHBOCが疑われる方はぜひ当センターにご相談ください。
参考文献
- Meta-analysis of risk reduction estimates associated with risk-reducing salpingo-oophorectomy in BRCA1 or BRCA2 mutation carriers.
Rebbeck TR, Kauff ND, Domchek SM.
J Natl Cancer Inst. 2009 Jan 21;101(2):80-7. doi: 10.1093/jnci/djn442. Epub 2009 Jan 13. - Effectiveness of Prophylactic Surgeries in BRCA1 or BRCA2 Mutation Carriers: A Meta-analysis and Systematic Review.
Li X, You R, Wang X, Liu C, Xu Z, Zhou J, Yu B, Xu T, Cai H, Zou Q.
Clin Cancer Res. 2016 Aug 1;22(15):3971-81. doi: 10.1158/1078-0432.CCR-15-1465. Epub 2016 Mar 15.

遺伝性乳癌卵巣癌症候群(HBOC)センタースタッフ
執筆:小林佑介、関朋子
最終更新日:2021年7月1日
記事作成日:2021年7月1日

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